ハンス・アルプのダダ
デッサンとかはやらないと仰って当ラボに通って来ておられるAさん(仮名)のために、今回はハンス・アルプというアーティストをとりあげることにしました。アルプの考え方と作品の作り方について調べます。彼のパートナーであったゾフィー・トイベル・アルプもとても面白いのですが、こちらの方がわたし(エリテ先生)が分析するのに時間がかかったこともあり、後でやることになりました。
ハンス・アルプは第一次大戦中の1916年、彼が30歳のとき、戦火を避けて辿り着いた中立国スイスのチューリッヒにて、キャバレー・ヴォルテールという芸術家クラブに参加します。欧米各地に飛び火したダダの「運動」がここから始まります。ハル・フォスターというアメリカの美術批評家は、「戦争と各人の祖国を超えて、それとは別の理想に生きている数少ない自主独立の人々を想起してもらうこと」*1というフーゴー・バルの言葉を、ダダの核心として位置づけています。フォスターによればチューリッヒ・ダダとは、「亡命者として祖国から切り離され」つつ、「国境を越えた政治活動と、普遍的に通用する言語」を創り出そうとするアナーキーな「芸術家のコミュニティ」でした。この評価は、ハンス・アルプに関しては一脈通ずるところがあるように思います。
駆け足でおおざっぱに言えば、アルプの作品を特徴付けるポイントは2つ。
1 自然の模写ではなく自然と等価であるような、独自に固有な生成の時間を有した具体的な個物。
2 匿名性(自我によるコントロールの否定)
積極的に戦地へと赴いたアーティストも少なくなかったなか、やはりアルプの作品は戦争への嫌悪を背景にして見ると重みが違ってくると思います。
アルプについてはそれぞれ詳しい書籍など調べていただくことにして、作品分析に移りましょう。
アルプの作品は主に二つのパラメーターから成ると言ってよいように思われます。
1 輪郭線
2 諸形態を繋ぐ線(運動の線、構成の軸線)
これらを決定する際のポイントは、「自然な生成」、「もう一つの自然」です。紐を床に落としてできた線とか、紙を破ってできた線、自由に気ままに運動する手が無意識に描き出したかのような線、触覚が記憶した運動による線・・・などなどがアルプの使った線になります。「2」については、特に彫刻で顕著なのですが、諸部分が連続しつつも「立っている」ということ。(必ずしも全ての作品が支柱なしに自律するわけではないようですが。)植物や動物がモデルになっているようです。コーヒーカップを積み重ねただけ、なんてのも見られます。
ところで、私(エリテ先生)が見るところ、これは晩年のマティスのカットアウトにも言えることのように思われます。


マティスは大きな色紙をハサミで切り抜いて形を作っていたのですが(写真参照)、この写真にあるように、ハサミでチョキチョキ形を切り抜いている間は全体の形は見えません。切り終えて初めてどんな形かわかるわけですね。切り抜いていく運動のプロセスこそが形態を決定するわけです。おそらく、このことが形態に自由(ファンク?)を感じさせる理由ではないでしょうか。で、たとえば図に掲げたような形態ですと、まず色と紙の大きさは決まっています。次に切り抜いていく線の運動は(アルプの「1」に相当します)、一回伸びて二回行ったり来たりを繰り返して戻ってくる、次に、線の連続性に従って位置を変え(アルプの「2」に相当します)同じ運動を反復してゆく・・・紙の端まできたら(おそらく)線の連続性に従って同じことをしながら戻ってくる・・・。他の形態に関しても、生成について同様の分析を加えることができます。
マティスの場合は、こうして自由に生成した形態や色をあちらこちらと配置換えしながらさらにおおきな動勢(作品)へと仕上げていくわけですが、なんか、応用利きそうですよね。

ハンドスカルプチュア
ちなみに、バウハウスの校長でもあったモホイ=ナジが学生への課題として紹介している「ハンドスカルプチュア」(写真)は、ハンス・アルプの作品が元ネタです。(『ヴィジョン・イン・モーション』*2参照)自由に形態を作成することが目的というより、重さや触覚含め、具体的な道具の扱い心地を探究するための課題です。
ナジが「ハンドスカルプチュア」制作時に気をつけるべき事として語っていることは、形態の生成に関して具体性を欠くものの、そのままアルプの作品の批評にもなっているような、ナカナカのもんですので引用しておきます。
「海岸の小石は実に多様な形をしている。それらは山野岩から削りとられ、海へと向かう河川で洗い流され、互いにぶつかりあい、川底にぶつかったりしながら、すりへらされ転がってきたのだろう。こうして、その形は、本質的に有機的なものとなる。―それは素材に外的な力が加わったことによる当然の結果である。(略)ハンド・スカルプチャーは、手で持ったり遊んだりするのにちょうどいいということだけが機能として求められる。それはまた、空間のダイアグラムとして理解される。加えられる力―彫刻の道具が製作者の意図と結びあって作用する力―に対して木材が抵抗した結果である。これらの諸要素が自然の場合と同じように、そのプロセスにおいてしっかりとひとつのものになるならば、有機的な〔木材が本来持っている〕質と言うことができるだろう。このような場合、すべての要素は個別に、そして一貫したものとして考えられるので、最終的にできたものは、有機物と同じように必然的なもののように見える。」(『ヴィジョン・イン・モーション』)
ただし、機能を持たない、人間の社会に位置づけられないような固有な事物の生成を尊重するのだというアルプからすれば、全てを機能へと還元するこのようなやり方は裏切りと映るかも知れませんが。
*1 『図鑑1900年以降の芸術』所収 磯谷有亮訳 東京書籍
*2 『ヴィジョン・イン・モーション』 ラスロー・モホイ=ナジ著 井口壽乃訳 国書刊行会