ケペッシュ『視覚言語』 後篇

更新日:6月29日



後半部に入ります。前半部で予告されていた「空間的感覚のちがいについての詳しい研究」がいっぱいです。後半部も内容によっていくつかに分けられますが、まずは最初のヤマ場である「透明性、相互浸透」という節を中心に話を進めていきましょう。*1


ケペッシュの『視覚言語』は明確な敵対性に基づいて話が構成されています。政治的です。敵が何か知った上で読むと、バラバラに見える各節にも一本筋の通っていることが見えてきてすごく分かりやすいです。ケペッシュの敵、それは「線遠近法」です。


「線遠近法」、これのなにがダメなのか。ケペッシュによれば、これは人間の知覚や経験をリアルに表現していない。視点や視線を固定し、色彩の自由を奪い、空間の拡がりもなく、運動や時間を表現できていない、表現としてとても貧しい空間である、ということになります。逆に言いますと、これからケペッシュが列挙してゆくさまざまな「空間的感覚のちがい」は、こうした「線遠近法」では表現できなかったよりリアルな空間表現だ、ということになります。なぜ「線遠近法」が多様な「空間的感覚の違い」の一つに数えてもらえないのかと言えば、それは「線遠近法」が多様な「空間的感覚の違い」を抑圧し排除するモノだからだ、ということになるのでしょう。*2


では、「線遠近法」以外のさまざまな「「空間的感覚の違い」を見ていきます。


1 大きさの関係。これは、心理的にあるいは社会的に意味のあるもの価値のあるものを大きく描く(「線遠近法」を無視して)、という空間表現です。例として挙げられているのは中世のイコン。それと、1940年代当時のポスターです。





2 続いては非—水平線とでも呼びましょうか、水平線のない空間表現です。水平線は「線遠近法」にとって生命線です。なぜなら「線遠近法」の空間を作図するためには視点=水平線をまず設定しなければならないのですから。水平線のない「線遠近法」はありえません。また、水平線との関係によって、画面に描き入れられた図の位置が決まります。(水平線が画面の中にない「線遠近法」を考えることはできますが、それが線遠近法である以上は、かならず水平線が必要になります。)ここでも反「線遠近法」ですね。水平線のない空間表現として例に挙げられているのは空撮とか、あるいは背景が真っ黒で上下左右も不明な得体の知れないモノに近接して撮影された写真、などです。


3 つづいては平面の重ね合わせだけで表現された空間、です。1400年代のドイツの版画が例として挙げられています。非西洋絵画のほとんど、浮世絵もそうですし、他にもマティス、マレーヴィッチとかケペッシュの同時代の画家の絵などを例として挙げておくこともできるでしょう。ちょっと問題提起な作品として、ここではピカソの『Head (1913)』を挙げておきます。




4 透明性、相互浸透の節です。少し長いですが、重要な箇所ですので引用しておきます。


部分的に互いに重なり合っている二つ以上の図がらがあって、こうした図がらのそれぞれが、重なり合っている共通部分が自分に属しているものであると主張し合っている場合、それを見ている者は空間的な次元について一つの矛盾に直面する。この矛盾に解決を与えようとすると、彼は新しい一つの視覚的性質がそこに存在するものと考えざるをえない。ここに関係するさまざまな図柄は、透視性を帯びている。つまり、これらの図からは、互いの存在を視覚的に破壊することなしに、相互に浸透することができる。加えて、透視性というものは、透明であるという一つの視覚的特徴以上のものをも含んでいる。つまり、より一層範囲の広い空間的秩序をも示唆している。透視性とは、空間的に異なるいくつかの位置を同時に知覚することを意味する。空間が一つの連続的な活動を続けながら、後退するばかりでなく、揺れ動くのである。透明な図がらの位置は、その図がらを近くのものとして見たり、遠くのものとして見たりするにつれて、どちらともとれる意味をもつ。


前半部の最後にピカソの絵がでかでかと掲げられていたことが思い出されます。ここでは「透視性(透明性)」という現象について二つのことが言われていて、一つはガラスやセロファンのように透き通ったものが重ね合わされた空間、二つ目は「空間的に異なるいくつかの位置を同時に知覚する」空間です。ピカソの絵は後者ですね。言葉だけ見ると混乱するんじゃないかと思いますが(異なるいくつかの位置を”同時に”知覚するってどういうこと?みたいに)、例として挙げられている作品から察するに、ある要素を共有したり、あるいは要素同士が関係づけられて一つのユニットを成すようにしたりして、複数の空間が重ね合わされていること、と言えるでしょう。



(図)『視覚言語』で挙げられている例 



この「透明性、相互浸透」はケペッシュイチオシの空間です。これぞ我々の時代の表現だとか言ってますし、この教科書の中でなんども繰り返しとりあげられていますし、絵画、建築、グラフィック(広告)、写真、はては音楽についてまで、幅広く例を挙げてこの「透明性、相互浸透」を強調しています。アツいです。(が、ゆえに、そこには同じ「透明性、相互浸透」という一つの名で括っていいものかどうか判断に苦しむ事例が生じているように思えるのですが、それについては当ラボにて。)





ここで一休みしてピカソの作品について寄り道をしていきます。ピカソについては以下のテキストを参照します。


1 『美術手帖 2008年 8月号 スーパーマンになろう!現代アート基礎演習』(監修 岡﨑乾二郎 美術出版社)


2 『ART SINCE 1900』(著 Hal Foster, Rosalind Krauss,Yve-Alain Bois, Benjamin H.D. Buchloh)/ 邦訳 『ART SINCE 1900--図鑑 1900年以後の芸術』 訳 尾崎 信一郎、金井 直 他 東京書籍)


3 『キュビスム芸術史--20世紀西洋美術と新しい〈現実〉』(著 松井裕美 名古屋大学出版会)


ピカソについては色々解釈も議論もあって書かれたものすべてフォローするのは無理難題というものです。ですが、とりあえず上に掲げた3点に目を通せば、ピカソにアプローチする入口は見え、かつ、なによりも絵が描きたくなってくるのではないか、と思います。これらについての要約・解説などは当ラボにて。


『視覚言語』に戻りましょう。続けて、線遠近法の批判が入ります。いくつもの「空間的感覚の違い」が列挙されている中で、これだけが徹頭徹尾批判的に言及されております。「線遠近法」がかわいそうになってきますが、しかし、ケペッシュを擁護したくなる気持ちが私にはあります。以下に理由を述べます。


一般に、美術系の人々の間にはデッサンを習うと絵(イラスト)が描けなくなる、と吹聴している方がおられます。が、思うに、デッサンを習うことが悪いわけではありません。デッサンが描ける(描けるとして)のに絵が描けないとしたら理由は二つ、


①描き方:予備校生の頃から仕込まれることになる受験に特化した(様々な制約を受けた)「デッサン」しか知らない。 


②絵画空間:絵画空間と言えば「線遠近法」(もしくはその亜種)しか知らない。(「抽象画」を描くときですら「線遠近法」的な空間を前提にして描いてしまう、など)


・・・これでは絵を描くには十分でない(描けないわけではない)、それだけのことだと思います。私などは某美大の油絵科出身なのですが、ここでケペッシュが挙げているようなさまざまな空間のタイプを教わったことはありません。(自分で勉強するわけです!)というわけで、『視覚言語』が列挙していくさまざまな「空間的感覚の違い」に目を通しておくことは、絵を描く上で(もちろんグラフィックデザインにおいても)役に立つことと思います。


5 線遠近法が批判される理由はすでに述べてありますので、次の節に移りましょう。逆遠近法という節です。逆遠近法については図を参照して頂きたいのですが、なぜこれが遠近法であるにもかかわらず良しとされているかと言えば、ケペッシュによればこれは人間の知覚に近いからだ、ということになります。確かに左を向いたときの線、右を向いたときの線、これらをそれぞれ表現しているのが逆遠近法です。首を左右に振って風景を眺めるとき、奥行きの線は収束するのではなく拡がっていきますよね。




6 線遠近法とは異なる遠近法として挙げられているものとして、他には「複合、連立的な透視法」というものがあります。ティントレットの絵が例に出ております。前半部で提示されたヴォキャブラリーも使いつつ、見ていきましょう。




これはローマ神話(ギリシア神話)のなかのエピソード。愛の女神ヴィーナスと戦いの神マルスが逢い引きしているところを、ヴィーナスの連れ合いに見つかっちゃうという話。画面全体は三つの異なる遠近法で分割されています。それぞれつぎのようになっております。


1 手前の空間 ヴィーナスとマルス

2 左奥の空間 遠景の街とキューピッド&三美神

3 右側の空間 ヴィーナスの夫ウルカヌスと浮気を告げ口する太陽神ヘリオス(雄鳥)


手前マルスの腕が賑やかし三美神と目隠しキューピッドへとつながり(「線の連続性」)、パワー注入!みたいな感じになっております。ちなみに目隠しキューピッドというのは聖なる愛ではなく俗なる愛を意味するみたいです。

 この三美神とキューピッドを連れてきたのはヴィーナスなのでしょう、全員裸である点が共通というだけでなく明度においてひとつのグループとなり、ひときわ明るい白い布によって、地面の暗さと同化するマルスとは区別されています。(「類似・同一性」。ただしヴィーナスとマルスの二人は近接、大きさにおいてひとつのまとまりを成しております。)どうも、ヴィーナスこそすべての原因だ!とでも言いたかったのでしょうか、ティントレットは・・・。やがてやってくるであろう修羅場、それが画面右奥で予告されております。(まるでヴィーナスが自ら彼らを呼び込んだかのようにも見える構成ですね。自業自得・・とでも言わんばかりです。)


さて、これでもまだ後半始まったばかりなのですが、ここらで終わりにしておきましょう。当ブログを読んで美術って面白いじゃんと思われた方、ラボにてお待ちしておりますからねっ!





*1 今を遡ることおよそ27年前、1995年に『批評空間』という雑誌の特別企画として『モダニズムのハードコア』という本が刊行され美術界をおおいに賑わせたのですが、そこでもこのケペッシュの「透明性」が触れられていました。『モダニズムのハードコア』についてはラボにて寄り道いたします。ちなみに1995年とは、携帯&PHSの普及率9.4%、Windows95英語版発売、初代iMacの発売はこの3年後、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』放送開始、阪神淡路大震災があり、オウムによる地下鉄サリン事件があり、野茂英雄がメジャーで新人賞を取り、スピッツのロビンソンがヒットした年、です。


*2「線遠近法」をめぐって展開される議論としてはアーティスト岡﨑乾二郎による著作『ルネサンス経験の条件』の議論(先の『モダニズムのハードコア』での議論を展開する形で書かれている論考)が面白いので、こちらもラボで寄り道いたします。

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