ケペッシュ『視覚言語』 それから

更新日:9月12日

1944年にアメリカで出版された『視覚言語』について、検討していきたいと思います。


おさらいしておきましょう。この本は、全体として大きく前半と後半に分けられ、後半はさらに二つに分けることができます。前半は私たち(人間)の知覚に備わった傾向性の析出、また、そうした傾向性が絵画やデザインにおいてどのように用いられているかということの分析です。続いて後半部に入り、「線遠近法」に敵対しつつ「線遠近法」以外のさまざまな空間表現を古今東西に探る、という節があります。このブログで紹介したのはここまででした。(ほんの一部ですが。)


こうした「視覚言語」の分析はかなり役に立つと思います。課題として使うことも比較的容易だと思われます。ところで、ひととおりさまざまな空間表現の紹介が終わった後に、ケペッシュはいよいよ自分の考えをハッキリと述べて「今日の視覚言語」とはどうあるべきかを語り出します。当ラボではここで語られる「今日の視覚言語」について、考えていきます。


「表面の閉鎖—空間的諸力の完全な一致」という節で、彼はまず「今日」(1940年代です)の社会と美術の関係について、問題提起を行います。が、ハッキリ言って何言ってんだかぜんぜんわかりません(笑)。いや、意地悪とかではなく。彼と行動を共にしていた兄貴分であるモホイ=ナジもまたそういうところがあるのですが、こと社会や歴史についての分析を語らせるとかなりボロボロなのがケペッシュです。ナジについてはまたいずれとりあげますが、ここでは話がややこしくなるだけなので言及しません。

とりあえずこの節から読み取れるケペッシュの問題意識とは、科学・技術は発展したが適切に制御されておらず、その結果、「社会的疾病、国内的・国際的な競争、失業はそのために減少することなく、エネルギーの利用は万全ではなく、人々の日常生活も良く組織されているとは言えない。」というものです。新たな一歩を踏み出しているのは今日では建築であり、モンドリアンの絵画であると言っています。観念的に過ぎて何言ってんだかぜんぜんわかりません。ですが、ここにドイツ工作連盟からバウハウス、デ・ステイル、モホイ=ナジの諸議論の影がうっすらとちらついています。なので、エリテでは直接読み込んで何かが分かる見込みの薄いケペッシュは素通りし、ドイツ工作連盟、バウハウス、デ・ステイル、モホイ=ナジ・・・といったデザインの歴史を見ていくことにします。ついでに、民藝や限界芸術にも言及していきます。(今回のブログでは触れません。)


さて、問題提起はよくわからないものの、ケペッシュが今日の「視覚言語」をどうあるべきと考えているのかは、これ以降の節で理解できます。これからそれを見ていきます。


「現代的状況への適応」および、「単純さと強さ」、「正確さ」という三つの節で、彼が社会をどう捉えているのかがハッキリ伝わってきます。彼によればタブロー(一点物の作品のことです)は時代遅れである、一対一の作品経験など時代遅れである、なぜなら今日では多数の受け手に同時に語りかけることが要求されているのだから。個人などというものは意義を失った。機械やショーウインドウ、飛行機、電車などによって生まれた社会的な相互依存関係は新しい人間を生みだした、一本の線に点が含まれるように、個人は一本の線の中の点になる、この線の中の点としての新しい人間は「視覚的強度を増幅し、視覚言語のレベルを下げて共通の慣用語で語ることを要求する」。現代の風景にあって、「多くの微細な部分を知覚し、受容するための時間の余裕はない。視覚的衝撃の持続はあまりに短い。あまりにも多くの事象が継起する視覚的混乱状態の中で、ひとの注意を引き、充分に意味を伝達するためには、イメージは交通標識と同様に各要素の単純さとあふれるばかりの力強さを持たなければならない」。

また、工業生産の正確さについて彼は、人間の手になるものとしては他に比べるものもなく、「最高の精度と、機能的な要請、有用性、経済性に従うコントロールによって生産」されており、「完全性、整合性、感性を備えた唯一の創造物」とまで言っております。その厳密さ、機能的明瞭性、厳密な連関といった特徴は画家達に霊感を吹き込んだ、とも。(フェルナン・レジェのことですけれども・・。工業製品の美学については、ジャンルを超えて幅広く浸透しているように思われますので、そのヴァリエーションも含め、実例を見ていきたいと思います。)


フェルナン・レジェ


ね、なかなかヤバいでしょう(笑)。とは言え一理ある。今日のデザインもまたしばしばこうしたロジックで決定されているように思えますし。また、彼がこのように主張するイデオロギーの元ネタはと言えば、デ・ステイルが開発したフォントの思想に求めることが出来ます。(図)ケペッシュが本書で崇拝しているル・コルビジェはフォードシステムを絶賛しております。で、これこそが「社会的疾病、国内的・国際的な競争、失業」の解決や「エネルギーの万全な利用」、「よく組織された人々の生活」だと言うわけです・・・。



当ラボで課題にするのは、もちろん、このケペッシュの「美学」についてどう考えるか、です。手始めに、彼のロジックの検討から入ります。ここでのケペッシュの論理は、社会状況や社会環境が制作物を決定する、というものです。現代の社会的環境から自動的に導きだされるのが「単純さと強さ」、「正確さ」である、と。というわけで手始めに、「単純さと強さ」、「正確さ」といった美学ないし評価のための基準は他の時代、他の文化においては見られないものなのか、それを調べてもらいます。見られるとしたらそれにはどのような理由があるのか、も報告してもらいます。


また、ケペッシュの論理では社会状況、社会環境といったものについて、彼に観察できた限りでの光景が自明視されており、一般化されています。それこそが彼の思想、彼の美学の根拠だというのに、です。まるで他の可能性がないかのようであり、変化する余地がないかのようです。どのようにしてそうした社会状況や社会環境が成立しているのか、発生してきたのかについての考察が欠けています。他方、こうしたプロセス、たとえば生活環境をいかに形成するかということについて、それこそがデザインの問題であると考えた人々がいます。ケペッシュとは真逆の考えです。こうした論理にも触れていくことでケペッシュの美学を検討し、社会における美術の働き方について議論していきます。論文書くわけでもなく、おやつとか食べながらですけど。




*1 彼の美学が開陳される後半部において、ケペッシュは一貫して機械技術こそが新たな空間や視覚イメージを創り出すという立場から論を進めている。顕微鏡や飛行機、写真が新たな空間の経験を、人工的な光が新たな視覚像を、という次第である。ケペッシュの立場から考えるならば、「新たな」視覚イメージを探るためには様々な機械技術を試してみるだけでよい。(コピー機、スキャナーなどなど・・・)


*2 ピカソやマティス、モンドリアンといった当時の巨匠達については、ケペッシュはその作品の自律性を評価する。たとえば、タッチや明暗、ボリューム、色彩といったような絵画空間を形成するための諸要素が、事物の模写から離れて絵画独自の空間・事物を作り上げていると、彼は賞賛する

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