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広告芸術VS純粋芸術(ケペッシュ『視覚言語』最終回)

更新日:1月11日

ケペッシュ『視覚言語』という本の後半部は、なぜこのような構成になっているのだろうと理解に苦しむところがあります。ざっくりと古典から近代への美術の歴史を考察しているのですが、なぜか唐突に制作のプロセスについての注釈が入ってきたりします。率直に言って、それぞれの節のつながりが彼のテキストからはよくわかりません。おそらく、これから見ていくことになりますが、彼が論証するところによれば美術の到達点・’最終形態は’「広告美術」なのですが、その「広告美術」にとって血肉化され止揚されるべきものとしての前衛美術について、ひとくさり説明しておく必要があったということではないかと、私(エリテ先生)は思います。前衛美術は批判され止揚されますが、血肉化されて広告美術のなかで生き続けていくので知っておこうね、ということのようにも見えます。(ファイン・アートに対するある程度のリスペクトは常に彼にあるのですが・・・。


ケペッシュの目論見はさておき、これらの節では前衛美術のスタンダードと見なされた作家・作品が目白押しですので、エリテではそれぞれの節にあわせて他のテキストを使いながら作品についての知識を深め、作品をみていくというかたちをとっています。前回のアルプなんかもそうです。


『視覚言語』最終章"Toward the dynamic iconography"は「力動的な視覚表現を目指して」と訳されていますが、これは「力学的な図像学に向けて」、とか「機能的図像学に向けて」などと訳した方がケペッシュの意図が伝わるように思います。ケペッシュのプロジェクトをお披露目する章になっています。


話はまず、彼の論理の大前提となる純粋芸術批判から始まります。ここで批判の対象になっているのはあからさまに言及されはしないもののモンドリアンです。(ちなみに、モンドリアンの作品について、ケペッシュは別の節ではその統一性・自律性を褒めちぎっています。つまり、前振りです。)ケペッシュの語る美術史において、古典美術は自然の文字通りの模倣に過ぎず「一つの造形的有機体としてのイメージを抹殺してしまった」とされます。これを乗り越え止揚したのがセザンヌから始まる「非再現的芸術」*1であるとされます。 既に見てきたように、セザンヌがまずは自然の光や線遠近法から独立した「抽象的な」ボリュームや空間の作り方を確立し、ピカソらがそれを展開し、ピュリスムに至り、モンドリアンが現れ・・・というのが彼の言う「非再現的芸術」の道程でした。作品は自律し、「自然の模倣」ではない作品独自の空間を表現することになった、ということです。


しかしながら、ここには未だ古典美術の残滓がある、彼らのリアリティは視覚的なものにすぎない、というのが最終章で語られるケペッシュの主張です。視覚的に表現されるもののリアリティとは色や形によって「純化」され得る範囲にはとどまらない、と。引用しましょう。


視覚面で経験する体験は、純粋に感覚的な性質の体験とは比較にならない複雑さをもつ。視覚面に起る感動は、積み重ねられた記憶の層の表層面とまぜあわせ、織り合わせられる。どのような視覚上の構成にしても、にわかにはとらえがたい意味をもった一つの物語をその背後にもち、いろいろな物や出来事についての連想を呼びさせ、感動的な反応やはっきり意識にとらえうる反応を生み出させる。


要するに、イメージとは人間の生活・歴史・社会的な文脈から逃れられないものである、と言っています。たとえば、


いま我々は二人の男がベンチに座っている写真を見ている。この写真の中に示されている一つ一つの視覚的単位は、それぞれさまざまな連想を我々にもたらす。片方の男は、他の一人よりもよい身なりをしている。彼らは互いに背を向けて座っている。彼ら二人の身体つきや姿勢は、連想をたくましくさせるに充分な様子に満ちている。我々は彼ら二人を比較し、対比させ、そうしている間に、彼ら二人の違いとか類似性を発見する。我々は、類似点を活用することによって、彼らが相異なっているというへだたりになんらかの橋渡しをみつけようと努める。イメージがダイナミックな体験となるのである。





うんうん、なるほど、ここには「純化」されたイメージよっては伝えられないものがありますね。また、これはケペッシュが挙げている例ではありませんが、たとえばピカソのコラージュにとってイメージは重要でした。貼り込まれているのは当時の新聞記事や最新流行の商品のラベル、などであり、その併置は特定の文脈において意味を生じさせるものでした。





とは言え、彼の挙げている例がいわゆる「古典美術」とどこが違うのか、モンドリアンに果たして「社会的文脈」が皆無であると言えるのか、突っ込みたいところですが話を先に進めましょう。ちなみに、ここら辺りの議論はケペッシュに遅れること数十年のち、ロザリンド・クラウスというアメリカの美術評論家が展開したものとそっくりです。(彼女にとってもまた、モンドリアンは「敵」でした。)純粋な形式VSコンテクスト(or指標)というものです。このようなテーマについてはジャック・デリダという哲学者が『声と現象』という本に書いていることの方が断然精緻で役に立つのですが、機会があったら触れたいと思います。


ところで、ここでもまた、彼は現代的表現へと至る道筋を段階的に記述していきます。先に紹介した写真に見られたような安定した物語の共有が揺るがされる、そんな作品群が現れた、と彼は指摘します。それがダダです。たとえばテキスト中で紹介されているK・シュヴィッタース作品は、てんでんばらばらに集められた諸々の物質が帰されるような統一的な場所(ないしイメージ)を破壊する欲望、あるいはそれが既に破壊されていることが示されている(表現されている)、とだいたいそんなことを彼は言っています。







かくして、ダダによって「意味上の統一性」・再統合へと向けた新たな段階が準備された、と彼は続けます・・・ダダをそう捉えるのはケペッシュの勝手と言えば勝手ですが。再統合の必要性がどこから来るのか、まるで、歴史はそう動いているのだからと言わんばかりの語り口において、実のところ彼はその必要性についてひとつも説明していない、ということは指摘しておくべきかと思われます。と言うのも、「再統合」の具体的な例として彼が持ち出すアンドレ・ブルトンのシュールレアリスムですが、シュールレアリスムをめぐってはやはりこの「再統合」をめぐって大いに議論があり、その必要性は決して論証抜きにして自明のものと言うことはできないからです。ジョルジュ・バタイユという哲学者・小説家とブルトンとの間で交わされた議論です。これもまた、いずれ触れたいと思います。(教室では今のところざっくりさわりだけ紹介します。)


さて、てんでんばらばら同じ時空間に存在せず互いに無関係にも見える物質ないしイメージを「再統合」するとき、ケペッシュが参照するモデルは、ああ懐かしいです、ピカソの作品です。「リズム」として語られていましたね、さまざまな要素をつなぎ合わせてゆくことで、単なる現実の写しを超えた「より真実に近い」表現が可能となる、と。こんなところでピカソのキュビスムを持ち出すなんて、エンディングが近いことを予感させますね。ここまで色々長かったです、泣けてきます。


とは言え、画家たちが目覚める遙か以前に、広告の世界ではこうした表現はすでに実践されていたのだ、とケペッシュは続けます。少々長いですが引用します。私の涙を裏切るかケペッシュ。


画家達がこの問題にいどみ始めるずっと以前から、米国の広告の分野ではすでにフォトモンタージュが利用されつつあった。この時代の解決法は、キュービスト達の空間分析に似かよっていたが、次の点で一つの違いがあった。つまり、キュービストの絵画では、各要素の結ばれ具合は、対象物をその眼に見える一切の空間的局面について明らかにするという目的に支配されていたが、 フォトモンタージュの世界では、このような結合性は、現実に表現されている対象 ——エレメントの機能的な意味深い関係の支配下にあったのである。

写真的ないろいろな要素を詳細に分析し、改めて配列しなおし、それを絵画と組み合せようとする考え方は、フォトモンタージュでも実験的な形の中でもさらに深くつき進められた。ちょうどはめば歯車の相互作用と同じように、空間は、自然主義的な関係づけにたよることなしに、線と形の相互作用と、身近にある空間的ないろいろの光景の断片をちりばめた写真と手がきの単位とによって表現された。その結果生れた映像は、現実の三次元的単位の表現と、線と形態という純粋に造形的な要素による表現とを、互いに等位なものとして組み合わせることによって一つの力動的な空間的体験を生み出したのである。


空間体験とは一つの機械です。機能的な連鎖の結果です。つまり、社会的文化的歴史的コンテクストと深く結びついたイメージ、そうしたイメージの機能的な連鎖(空間体験)を通して新たな文脈を構成するところにこそ今日の芸術の意義があるのだ、ということをケペッシュは言っています。ロシア構成主義が歩んだ展開との類似性を想起せざるを得ませんね。事実、ここではエル・リシツキーの作品も参照されています。なるほど、とは言え、ケペッシュがなぜ次のように言うことになるのか、その理由はわからないままです。したがって、広告芸術が純粋芸術を止揚したという論証は曖昧なままです。


現代の芸術家の任務は、視覚的イメージが生む力動的な力を社会的行動の中に解放し持ち込むことである。


これは私(エリテ先生)の勘に過ぎませんが、ケペッシュはロシア構成主義を政府による管理から逃れた場所で、より「民主的」なやり方で、あらためて展開し直したかったのではないか、そんな風に思えます。(資本主義批判がごっそり抜け落ちもしますが。)だからこそ、「芸術を社会に持ち込む」ことの必要性について、あえて説明する必要を感じなかったのかも知れません。


社会の諸条件によって広告が最も深く幅広い社会的な意味で正当化されるメッセージを伝達できるならば、広告美術は、一つの明白な民衆芸術、すなわちすべての人に行きわたり、すべての人に理解される芸術への途を用意する上に有効な力を発揮することができるのである。


最後に、ここではジョセフ・コーネルのような作家を引き合いに出してみたい誘惑に駆られます。イメージに関する理論としてはケペッシュの広告理論に沿っているでしょうがただし、「視覚的イメージが生む力動的な力を社会的行動の中に解放し持ち込むこと」とは無縁、あるいは「社会的行動」との距離・関係こそがイメージの重要な要素になっている作品です。”現在の””我々の”「社会」や「社会的行動」の仕組み、しきたりや掟を問いなおすきっかけはどこにあるのか。「社会」とか「人間の生活」と当たり前のようにケペッシュが呼んでいるものを素直に受け入れられない理由はこうした問いと共にあります。





*1 non-representarional artが「非表現的芸術」と訳されていますが、これだと意味が通じなくなるので訳し直してあります。

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