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ヨゼフ・ミューラー=ブロックマンの『グリッドシステム』2 デザインと民主主義

更新日:2023年10月7日

モダンデザインの開拓・洗練を担った多くのデザイナーたちの例に漏れず、ミューラー=ブロックマンもまた、デザインという仕事が民主主義に貢献するのだと信じていました。『グリッドシステム』の冒頭部分で彼はこんなふうに書いています。


「デザイナーの仕事は、広義の文化に貢献するものでなければならず、またそれ自体が文化の一部を担うものである。構成的で、分析や再生産をすることが可能なデザインは、社会の美的価値や、時代の形や色の文化に影響を与えうるものであり、また、それを広めることができる。そして、即物的(objective)で、公共の利益に寄与し、良く構成された文化的なデザインは、民主的なふるまいの素地を養うのである(constitutes the basis of democratic behaviour)。」


「民主主義」というのは政治的な概念で、民主主義とは何かという議論を掘り下げだしたらキリがありません。ですのでここでは、民主主義とはそもそも何なのかといった問題は今日の我々のテーマでもある、ということにしておいて、ブロックマンがイメージしていたような民主主義とはどんなものなのか、そうした民主主義とデザインの仕事がどのような関係にあるのか、これだけ確認していきたいと思います。


翻訳では「即物的」と訳されているのですが、このobjectiveという言葉は、どちらかというと「客観的」というような意味合いではないかと思います。(「即物的」だと意味が通らないので。)ロシアアヴァンギャルドの影響ですね。誰か個人の恣意でなく、誰もがその設計プロセスに参加でき、形態を決定する理由を物質的条件や機能に基づいて説明することができる、というような。つまり、ここで言われている「民主的なふるまい」とは、匿名性、共有可能性、計算可能性、議論の公開性・透明性、のことです。


作者は誰でもよい(匿名性)、制作のプロセス(判断・決定)は誰にもわかるものでなければならない、物質性にもとづき再生産可能でなければならない(観念的・空想であってはならない)、これがブロックマンのモダニズム=民主主義だと言ってよいでしょう。


ついでに言えば、となると、モダンデザインにパクリもへったくれもない、とも言えるかもしれません。同じような条件、単純な条件であれば誰が作っても同じようなものが出てくるでしょう。ましてやこれほど広くグローバルに情報が検索できる現在にあって、よく似たデザインなどいくらでも見つかるでしょう。問題は、にもかかわらずそこには経済的な関係が存在するのであり(「外注先」への支払い、盗用など)、法的な帰属の問題が存在するのであり(直接の改変を停止する権利・原典の尊重=著作権、会社組織における所有権のありようなど)、また、デザイナーという職業が市場において差別化の競争に巻き込まれているがゆえにモダンデザインの理念に対して引き起こす矛盾があり・・・といったことにあるのではないでしょうか。こういった問題は全てブロックマン的な(ロシア構成主義的な)「モダニズム=民主主義」の議論と不可分・一体です。どうお考えになるでしょうか?これらのことは教室で私エリテ先生が皆さんに意見を訊いてみている質問です、答えはとくに準備してません。オス。


答えは準備していませんが、ブロックマンがグリッドシステムについての最初の本を出版した(1961)のとほぼ同じ時期にモダニズム批判によって話題になったデザイン論があり、それがクリストファー・アレグザンダーの『形の合成に関するノート』(1964)、『都市はツリーではない』(1965)です。アレグザンダーの理論は長いので、回を分けて別に触れていきたいと思います。あらかじめブロックマンの議論との関連性及びこれらを突き合わせて考えるときの私の論点をごくシンプルに示しておきますと、「民主主義」とデザインとの関係、ということになります。これは私エリテ先生の未だ未整理な思いつきですが、アレグザンダーを読むと、それまでのモダニズム理論がいかに「政治(民主主義)」を観念的なものとしてしか捉えていないかがわかるように思います。そもそも民主主義とは事物のような一個の形態なのか?また、全てが計算可能なものとして考えられたデザイン(事物)の限界というものについても、考えを深める手がかりを与えてくれるように思います。


イヴ・アラン・ボワという批評家はモダニズムの理念を嘲笑って次のように書いています。「一冊の書物が具える形態が、世界を変える助けになりうると信じるなどということが、当時は可能だったのだ!」と。*1まあ、同じことを言いたくなる人も多いのではないかと思います。今日ではミニマルで数学的でクールなデザインはもはや全人類の夢見る未来ではなくなり、数多くあるスタイルの中の一つにすぎなくなったように見えますし、グリッドシステムによるデザイン自体は溢れかえっているにもかかわらず世の中の民主化はまだまだ充分でない、そもそもそうしたシステムを使っている当のゴニョゴニョ・・などなど。


とは言え、「一冊の書物」ならずともデザイン一般が、あるいは何らかの製作物の具える形態ないし生産過程が、「世界を変える助けになりうると信じる」ことは愚かであると、ボアが論証し得たわけでもありません。


最後に触れておきますと、グリッドシステムについては、もう一つ「秩序」に関する重要な論点があります。『グリッドシステム』の最後の章“古代と現代における秩序の体系”です。ここでブロックマンはル・コルビュジェの『モデュロール』という本から秩序とプロポーションについて記述された箇所を引用し、冒頭に掲げています。そうしておいて、多く図版を使いながら、古今東西の建築、音楽、美術において素材とプロポーションが生み出す美について、グリッドの美しさについてコメントを加えています。*2


ブロックマンは言ってました、「構成的で、分析や再生産をすることが可能なデザインは」「社会の美的価値」に「影響を与える」ことができる、と。グリッドシステムを使ったミニマルなデザインは今日でも多く見られますが、なんか大人っぽくて思慮深そうで、クールでおしゃれ・・みたいな感じのするものが多いですよね。ちなみに私はこういっった「考え抜かれた」デザイン、大好きです。デザイナーの志向に影響を受けるだけでなく、デザイナーでなくとも、ちょっと背筋を正してみたくなったりとか、部屋を整理したくなったりとか、論理的な思考に好意を覚えるきっかけになったりとか、なんかそんな人もあるかもしれません。 こうしたこともまた「世界を変える」ことであると言えないでしょうか。(それがモダニスト達の大いなる目的ではなかったとしても。)


終わり





*1 『ART SINCE 1900』(既出)p272 近藤學訳

  引用箇所について。ボアは、ブロックマンの論に大いに影響を与えているヤン・チヒョルトの『アシンメトリック・タイポグラフィ』を取り上げつつ、「擬似社会主義的な主張」が至る所に見え隠れすることを指してこう書いている。



*2 SNSなどでもよく見かけるジョーク画像で、人間の顔を無理やり黄金比に当てはめて福笑いみたいにしている画像、ありますよね。こうした画像が意味しているのは、数学的・幾何学的関係がリズムや秩序を生み出すのに必要だとしても、その分節の適切さが伴わねば意味をなさない、ということでしょう。行間や字間、単語の分節をめちゃくちゃにしてプロポーションだけを考えても意味がない、ということですね。

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