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ヘタウマと『人間不平等起源論』(ジャン=ジャック・ルソー)

更新日:1月23日


ジャン=ジャック・ルソーの名著『人間不平等起源論』を読んでみたいと思います。美術では、「ヘタウマ」とか、子供の描いた絵とか、素人(アカデミックな教育を受けていない人)の描いた絵とか、あるいはまた、アウトサイダーアートなどといった括りのもとで、ある種の規範から逸脱した作品あるいは規範を無視したような表現が注目される、といったことがあります。積極的に自らすすんで、そうした制作のあり方を選ぶ人々もいます。























そういった関心が前提としているロジックとはどういったものか、ルソーの思想の中にその源流の一つを見ることができるような気がしました。わかりませんけど。と言うわけで、以前からルソーの『人間不平等起源論』は、何らかの形でエリテでも取り上げたいなと考えておりました。また、レッスンにいらした方の中にたまたま人間の進歩について疑問を投げかける方がおられ、それについてもこの本は何らかの手がかりを与えてくれるように思われましたので、併せて、じゃあ読んでみようという事になりました。


この論文は、1753年フランス(デジョン)のアカデミーの懸賞論文に応募する形で発表されたもので、アカデミーの出したお題は「人々の間における不平等の起源は何であるか、そしてそれは自然法によって容認されるか」といったものでした。不平等は自然なことなんだから仕方ないんだって言っていいの?ということですね。(ルソーの論文は懸賞に落ち、落ちた後、本として出版されたのは1755年。『ベルサイユのばら』のオスカル、フェルゼン、マリー・アントワネットの生まれた年ですね。)


「自然法」とはなにか、その定義はけっこう様々です。ルソーはまず、アカデミーから出された問題自体を検討する形で話しを進めます。我々が今日知っている人間というものは、歴史的発展の過程で原初の自然状態からかけ離れてしまっている。だから、人間にとって何が自然であるのか(自然法)を知るためには、まずは我々が今日現在知っている「人間」と、自然から授かって備わっている人間のそもそもの性質とを区別するところから始めねばならない、と。


自然状態の人間(「自然人」)とは何か。ルソーは動物と人間を区別することから話を始めます。動物は固有の本能に従って生きる、と言われる。なぜそんなことが可能かと言えば、動物の身体が環境に適した道具そのものだからである。肉食動物には肉を切り裂くための強いアゴと鋭い牙が備わっていなければならないし、草食動物の腸は長い、などなど…。自然界には私たち人間の悟性を超える道具形態・ライフスタイルが多く発明され存在していますね。(ゆえに環境が変化すると死滅してしまったりもします。)

一方の人間は、と言えば、環境と一致・一体化して生きる生き物たちに比べれば、固有の本能と呼べるようなものはこれと言ってない。他の生き物たちの本能を模倣することができるだけである、とルソーは言います。そして、それこそが、人間の人間たるゆえんである。その都度、様々な〈生き物=道具形態〉にトランスフォームする身体を持っていること、様々な場所(環境)に移住できること、これが人間の有利な点である。そして最も原初的な自然状態の人間である、とルソーは言います。動物でありながら他の動物たちとは区別される特性を備えた生き物、それが「自然人」です。


では、自然状態の人間(「自然人」)と今日の人間の違いは何なのでしょうか?ルソーによれば、原初的な自然状態の人間は幸福です。少なくとも、現代人の抱える不幸とは無縁です。何も分からないからとか感じないからとかではなく、それぞれの生が自己完結しているので、権力者や社会によって人生を左右されることがないからです。ルソーの言う「自然人」は基本、孤独で他人に無関心ですが、自然状態にある生き物たちと同様に、他人の命令で駆り出される戦争などなく、生活習慣病に苦しめられる事もなく、過労や精神のストレスに悩まされることもありません。ほぼ動物ですから、自然人は。


人間には、2つの不平等があるとルソーは言います。

1つ、自然な不平等(年齢や身体の事)。

2つ、社会的あるいは、政治的な不平等(特権や服従関係に基づく)。


1つ目の自然な不平等については、考えても仕方がないとルソーは言います。(この点についての検討は今回はとりあえずスルーします。)

2つ目の社会的なあるいは、政治的な不平等こそが自然人と現代人を分け隔てるものであり、人間の不平等・不幸の源である、とルソーは明言します。


では、政治的な社会的な不平等とはどんなものか、ルソーの考えを概観していきます。


まず、道具を作り出すこと。道具は、自然状態の人間にはありえなかった能力を人間に授けます。しかし故に、これらは比較評価という観念を人間にもたらします。比較評価(「より良い」「貪欲」)という観念は人間の自然状態につけ加わった余計なものです。不平等の始まりです。また、ルソーは、発明された道具(衣服、住居、武器などなど…)が人間からさまざまにトランスフォームする能力を奪い、自然状態であれば可能であったような能力を発揮することができなくなる、と指摘します。(ルソーは当時の様々な旅行家たちによる「未開人」たちの驚異的な身体能力についてのレポートを紹介しています。) 文化的な不幸の始まりです。確かに、体力のある人は少々の風邪なら寝るか軽く運動するかで薬など使わずに治してしまうでしょう。現代人にはテレビやパソコンやゲームが原因で視力の落ちた人が多くいるでしょう。映画などでは、銃を持った敵よりはるかに自由に身体を使いこなし素手でバッタバッタと敵を倒していく、そんなシーンがありますよね、なんか最近の映画にもそんなのがあったような気がしますが…。


さて、ルソーは言います。住居や衣服、これらは発明されたものですが、しかしそんなものがなくても人間はそれまで生きてこられたのだと…。ルソーへの批判は、また後で検討しますが、しかし、「そんなものなくても生きていける」、これは、対人であれ対道具であれ、何かに服従・依存しない自由を保とうとするときには、今でも力強い宣言であるように思います。近年の最新の兵器()これらがなければ生きていけないと心から信じ、それを誰もが納得するかたちで論証できるような人はいるのでしょうか?


ルソーは次々と不平等の元となるものを挙げていきます。教育・鍛錬(競争と選別)、契約(狡知--私を信じなさいという「契約」・「約束」が先立たなければ人を騙すことはできませんよね)、恋愛(選り好みと執心)、余暇(退屈、余暇を奪われることから来る恐怖心の誕生--ギー・ドゥボールが指摘した「スペクタクル」批判のはしりですね。)、集会とスター(虚栄と羨望)・・・が、なかでも決定的なのが工業(「冶金」)と農業の誕生です。これらは、投資、土地の分配、占有・私有、他者のための労働といった観念なしにはあり得ない、とルソーは指摘します。


私有は敵対関係と抗争を生み、私有の安全を保証するところに国家が要求され、国家の管理者(権力者)とその委託者(市民)といった非対称性が生じます。これが不平等を生みます。他者のための労働とは財産の譲渡ではなく自由の譲渡であり、すなわち隷属の始まりです。他者に自らの時間を乱用され、はては悪事を強いられたりさえします。身に覚えのない人がいるでしょうか?「生命や自由は自然からの贈与物でありその放棄は本人の存在(活動・生命)にかかわる」(大意)のです。政体は適切な監視を伴わねば容易に専制国家へと転落するでしょう。今日でもそんな国家が世界に多く存在しますね。もちろん他人事ではありません。


後の『社会契約論』へと続くこれら国家および専制国家についての推論は興味深いものですが、今回の記事の目的から外れますのでここでは軽く触れるに留めて先に進みます。(エリテでは紹介します。)ルソーの結論はこうです。「不平等は自然状態においてはほとんど見られないが、われわれの能力の発達と人間精神の進歩によってその力を持ち、増大し、所有権と法律の制定によって安定し正当なものとなる。実定法によってのみ容認されるような人為的不平等は、自然的不平等と釣り合わないならば自然法に反する。(『人間不平等起源論』 本多喜代治・平岡昇 訳 岩波文庫)


さて、ルソーの文明批判はどれも痛切に堪えるものばかりです。まるで今日の私たちのことが書かれているかのようですし・・・。フランス革命前夜と今日とでほとんど変わっていないのではという気さえしてきます・・・。とは言え、法も文化も教育もなにもかもアカンのじゃということになると、これまたちょっと困ります。


ルソーへの批判でよく知られたものとしては、おおざっぱに言って、ありもしない原初の自然状態を理想化して想定している、というものがあります。ルソーによる今日の人間VS自然人の定義には矛盾がある。というのは、そもそも他の生き物の能力を模倣して取り込むことと道具や制度、言語などを「発明」したり「使用」したりすることとを截然と区別することは難しい。たとえば、今日の住居と呼ばれる形態以前に別のかたちで住居に相当するものがなかったのかどうか、わかりません。実のところルソーが想定する「自然人」と現代人の境界もまた、本書の中でしばしば揺らいでハッキリしません。ルソーもこのことは重々承知で、自然人を描き出すことの困難さを指摘しつつ、ゆえに『人間不平等起源論』は歴史に基づいた考察ではなく、モノゴトはこのように進むはずだ、という推論に基づくのだと書いています。いるのですが、まあ、書いちゃったわけですね。というか、彼の論理の立て方だとどこかではっきりと「自然人」の実在を見定めなくてはならなくなってしまう、ということなのでしょうけれども・・・。

動物たちは道具を用います。また、知れば知るほど、個別の生を超越した何らかの理性が働いて彼らを導いたとしか思えないほどの複雑なライフスタイルを持つものもいます。残酷さも狡知もあります(*閲覧注意)。人間の倫理とはまったくもって人為的なものです。『人間不平等起源論』のルソーは人間の活動を悲観しすぎている、とも言えましょう。杖や眼鏡を使うことはどんな不平等を生むのでしょうか?戦争を実際には経験していないはずの私が戦争を嫌悪し繰り返してはならないと信ずるのは他者の経験としてその悲惨さを知ることが出来るがゆえにです。


ちなみにルソーは本書の中で「自然に還れ」などと素朴なことは言ってません。そもそもあらゆるものが「自然」となってしまった我々にとって、単純に、帰れそうにありません。たとえ誰か帰れた人があったとしても問題の解決にはなりません。仮にその人が「救われた」としても、「社会」が存在する限り不平等と不幸はこの世に存在し続けるでしょう。哲学者のドゥルーズはルソーの卓見を賞賛してこう書いています。「(魂においては正しく善良であることをやめてはいないのに)社会は邪悪であることが好都合であるような状況にたえず私たちをおく。」と。(『無人島 1953-1968』所収「カフカ、セリーヌ、ポンジュの先駆者、ジャン=ジャック・ルソー」 ジル・ドゥルーズ著 宇野邦一訳 河出書房新社)ドゥルーズの言うとおりだと思います。ただし、「邪悪」とか「善良」であるという観念がそもそも・・・というわけですね。


結論にはいります。まず、「人間は進歩しているのか?」という問いに対しては、進歩と同時に不平等と不幸も生んでいる。ということになるでしょう。(ルソーが指摘したように。)今の状態にとどまり続けることをヨシとしないのであれば、帰る場所はないのですから悪いことが起きる可能性とともに進歩を続けねばならないのでしょう。(事前に予測できる悪いことを許容するという意味ではありません。それでは「進歩」という語に矛盾します。)「進歩」はどのような方向へ進むべきかという問いへの答えも持つべきなのでしょう。


ヘタウマというコンセプトの先駆者のひとりとしてルソーを読む、この試みについてはどうでしょうか?今現在ある不平等や不幸の源となるものを批判するための手段、個の生の自由を想起するための手段、という意味ではルソー的なアプローチは採用できそうに思います。


ルソーは人智に先立つ、ということはその指針となるべき、二つの原理を示しています。

①自己の安寧と自己保存についての関心。

②あらゆる感性的存在が滅び苦しむのを見ることに対する嫌悪。(「同胞」の言葉を削除しました。)


「ヘタウマ」に話を引きつければ、グラフィックデザイナーのフィリップ・ワイズベッカーは、学校の美術教育で「より良い」とされるあらゆることの反対をやる、みたいなセオリーで絵を描いているように見えます。画枠とピッタリ重なるように形を構図しちゃいけませんって言ってんのにそういう構図とっちゃうとか、定規使って直線引いちゃいけませんって言ってんのに使っちゃうとか、パース合ってないとか、構図が微妙にずれててバランス悪いとか、本番用のちゃんとした紙使いなさいって言ってんのに下描きみたいな使い古しみたいなペラペラの紙使っちゃうとか・・。民芸や職人の描いた[素人臭い]絵が元ネタですが、'かわいい'です。湯村輝彦さんも攻め方は違えどそんな感じかも知れません。

また、ジョン・バルデッサリというアーティストは写真の教則本が教えるルールに違反する写真を作品にしたりしていますね(『Wrong』 1966-1968)。これの何が悪いんじゃ、と。ちなみに、90年代の「ガングロ」は「ルッキズム(「より良い」ルックス・選好選別)」への抵抗だなんていう解釈もあるみたいです。


優しいバカが生きられる社会。それを主張し、その自由を行使するのがヘタウマの可能性なのかも知れません。従来「ヘタウマ」と呼ばれてきたものよりかなり広範囲の作品をカバーすることになりそうですが・・・。





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